
多くの遺伝性疾患を引き起こす遺伝子コードを切り取る遺伝子編集技術のひとつ、CRISPRが医療分野に果たすであろう潜在的な力には、多くの期待が寄せられていました。しかし、米国と中国で臨床試験が始まると、自然な進化への影響を懸念する声も出てきています。
嚢胞性線維症や血友病などの恐ろしい遺伝性疾患を、ワープロで文を切り貼りするように簡単に胎児の遺伝子コードから取り除くことができ、同じ技術を使って耐乾性の小麦を作り出せる世界を想像してみてください。
SFのように聞こえるかもしれませんが、現在はCRISPR(「Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats [群生性等間隔短回文反復配列])と呼ばれる操作のおかげでこのような遺伝子組み換えが容易になってきています。登場から10年弱にもかかわらずCRISPR遺伝子編集技術の利用は科学界を席巻し、ワクチンや抗生物質以来の最大の医学的進歩として多くの専門家が歓迎しています。
「CRISPRはとても有力なツールで、大きな進歩です」と、ニューヨーク市にあるワイルコーネル医科大学薬理学のデンマーク人研究者Kristian Laursen氏は語ります。「CRISPRではゲノムの特定の箇所を標的にすることができ、過去の面倒なシステムよりもはるかに使いやすくなっています」とKristian Laursen氏は続けます。
CRISPRは発明というよりも発見にあたります。多数の単細胞細菌がDNAの反復配列を含む免疫システムを持っているという新事実に基づいています。この同一の反復の間に短い「スペーサーDNA」領域があり、これが以前に暴露したウイルスDNAと一致し、細菌が将来の攻撃を認識して回避できるようにしています。一度ウイルスに暴露した細菌がまたそのウイルスに遭遇するたびに、この配列が切断用の小さなはさみのように振る舞います。
ヒトでのCRISPR研究
この知識を利用して、カリフォルニア大学バークレー校生化学および分子生物学の教授Jennifer Doudna博士とベルリンにあるマックスプランク感染生物学研究所感染生物学科の微生物学者兼規制担当ディレクターEmmanuelle Charpentier氏は、Cas9(CRISPR associated protein 9:CRISPR関連タンパク質9)と名付けた酵素といくつかの誘導タンパク質を加えることで、この小さなはさみをゲノムの望みの箇所に向かわせ1つの遺伝子を切り取ることができることに気付きました。
たった数年の間に、CRISPRを使った植物、動物、さらにはヒトのゲノム編集が始まっています。ある注目に値する実験では、CRISPRを利用して4,000年前に絶滅したケナガマンモスから凍結DNAのサンプルを採取し、象を代理母として使って種をよみがえらせています。これは映画『ジュラシックパーク』を彷彿させるシナリオです。
「CRISPRはとても有力なツールで、大きな進歩です。 CRISPRは、過去の面倒なシステムよりもはるかに使いやすくなっています」
KRISTIAN LAURSEN氏
ワイルコーネル医科大学薬理学研究者
そして現在、科学者はCRISPRのヒトへの初めての適用に乗り出そうとしています。
2016年7月、成都の中国人科学者がCRISPR技術を使って免疫システムT細胞の遺伝子を不活性化することによる肺癌の治療をヒトで試す計画を発表しました。中国では出産にまでは至ることのない胎芽による実験ではありますが、他の4つのグループの科学者がすでにヒトゲノムを編集していました。
時を同じくして、2016年6月に米国国立衛生研究所(HIN : National Institutes of Health)の組み換えDNA諮問委員会(RAC : Recombinant DNA Advisory Committee)は、CRISPR/Cas9遺伝子技術を利用して骨髄腫、黒色腫、肉腫などの癌を標的とするように免疫システムT細胞の2つの遺伝子を編集することを承認したと発表しました。
改変遺伝子の遺伝
しかし、人体実験に関して複雑な心境を抱いている科学者もいます。「この分野での新しい遺伝子編集技術の適用はヒトの健康を改善する大きな可能性を秘めていますが、懸念がないわけではありません」と、NIHの科学政策担当アソシエイトディレクターCarrie D.Wolinetz氏はNIHブログ『Under the Poliscope : Bringing Science Policy into Focus(政策目線:科学政策に着目する)』への2016年の投稿で述べています。
生きたヒトでのこのような実験に関する1つの大きな懸念は、ゲノムの改変が将来世代に伝わり、その小さな改変が今から数十年後に未知の重大な変異を引き起こす可能性があることです。
もう1つの喫緊の懸念は、CRISPRはとても単純なのでテロリストやならず者政府がこの技術を利用して「フランケンシュタイン」疾患を兵器として作り出せる可能性があります。実際に、米国国家情報長官のJamesR.Clapper氏は、2016年2月に米国議会への年次報告「Worldwide Threat Assessmen(世界的脅威評価)」を作成した際に「大量破壊兵器と拡散」のリストにゲノム編集を含めました。
農作物でのCRISPR研究
科学者は、CRISPRの当面の最も実用的で商業的な用途は農業分野にあると考えています。種苗会社は、すでに先を競ってCRISPRで米や小麦などの農作物を改良して害虫や干ばつへの耐性を高めようとしています。
中国科学院遺伝および発育生物学研究所の研究者で現在はデンマークで働いているCaixia Gao氏の指摘によると、科学者は以前は突然変異誘発(植物を化学薬品に浸すか放射線に当てる)という操作を使って強制的に遺伝子を変異させていましたが、この変異は遺伝子の何千もの領域を変更する可能性がありました。したがって、強制的な変異では望みの変異を正確に実現するまでに長く骨の折れる操作が必要でした。
物議をかもしている別の手法として、遺伝子組み換え植物や動物の作成があります。この手法では、ある種類の植物や動物の遺伝子を別の種類の植物に挿入します。そのため、遺伝子組み換え生物(GMO : Genetically Modified Organisms)の安全性をめぐる議論がくすぶり続けています。遺伝子組み換え生物は、批評家から「フランケン食品」と呼ばれています。この一例が細菌の遺伝子を取り入れて農薬への耐性を備えた大豆であり、農家はGMO作物を害することなく農地に農薬を散布して雑草を除去できます。カナダの科学者は、キングサーモンの成長ホルモン遺伝子を挿入することで、天然魚の半分の期間で成体になる遺伝子組み換えサーモンさえも作成しています。
GMOとは異なり、現在では科学者は単にCRISPRを利用するだけで特定の遺伝子だけでなく塩基対として知られる特定の遺伝子の一部分も標的にすることができ、別の種から遺伝子を移植する必要がないとGao氏は述べています。Gao氏は、遺伝子編集を使って小麦が病気にかかりやすくなる遺伝子を不活性化し、無病株を作成したと語っています。
「将来、CRISPRは植物や家畜を改良して新種を生み出すための一般的で便利なツールとなるでしょう」とGao氏は予測しています。
米国が最初のCRISPR改変食品を承認
商業的メリットはすでに明らかになってきています。例えば、ペンシルベニア州立大学ユニバーシティパーク校の植物病理学および環境微生物学科教授YinongYang博士は、CRISPRを利用して大気にさらされたときに褐色にならないマッシュルームを作成しました。
米国農務省は、このマッシュルームは植物ではなく一種の菌類であり規制する必要はないと裁定し、CRISPR技術で作成され米国政府の承認を得た最初の有機体となりました。
「技術的には、農業はオフターゲット変異の問題がないためCRISPRの1つの大きな用途となるでしょう」とYang氏は語ります。「立ち戻って意図していない変異を取り除けばよいのです」(Yang氏)
「植物での効率的な遺伝子置換は いまだにとても困難です」
YINONG YANG氏
ペンシルベニア州立大学ユニバーシティパーク校植物病理学および環境微生物学科教授
Yang氏は、CRISPR編集米とマッシュルームに関する特許を申請する会社を設立しています。Yang氏は、ごくわずかな塩基対(1つの遺伝子に3,000の塩基対があります)の改変で米に必要な水と肥料が減少すると述べています。
CRISPRでの1つの問題は、遺伝子の一部を切り取る方が作成した空間に新しいものを貼り付けるよりもはるかに容易であることが判明してきていることです。「植物での効率的な遺伝子置換はいまだにとても困難です」とYang氏は言います。
しかし、切り取った遺伝子を置換しなくても多くの好ましい変化を起こすことができます。ヒトにおいては、疾患を治療するには細胞のたった10%の遺伝子を変更するだけで十分であると見積もる科学者もいます。
今後の展望
Laursen氏のような科学者は、いずれはCRISPRが疾患の治療に(遺伝性疾患だけでなく、乱用によって抗生物質に耐性を持つようになった細菌などの問題にも)劇的な影響を及ぼすと考えています。CRISPRは、細菌を攻撃して細菌の免疫防御を打ち破るウイルスの作成に使える可能性があります。また、HIVウイルスに侵されやすくなるヒトの遺伝子を不活性化するのに利用できる可能性もあります。
「将来、CRISPRは植物や家畜を改良して新種を生み出すための一般的で便利なツールとなるでしょう」
CAIXIAGAO氏
中国科学院遺伝および発育生物学研究所研究者
CRISPRは、果物の保存期間からヒトの寿命の延長にいたるまで、ヒトを含む事実上すべての動植物の基本的な遺伝子構造を変える可能性を秘めています。CRISPR派生の技術やバリエーションは進化を続け、ゲノム編集システムのさまざまな選択肢と新たな酵素が出現しつつあります。このような変化が有益であることが判明するか新たな問題を生み出すかどうかは、科学者や規制当局が今後注視していくべき課題です。◆
著者:Charles Wallace